聖書のみことば
2023年3月
  3月5日 3月12日 3月19日 3月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月26日主日礼拝音声

 つまずき
2023年3月第4主日礼拝 3月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第14章27〜31節

<27節>イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。<28節>しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」<29節>するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。<30節>イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」<31節>ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。

 ただ今、マルコによる福音書14章27節から31節までをご一緒にお聞きしました。
 27節に「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ』」とあります。どうしてこのような翻訳がされているのかは不明なのですが、マルコによる福音書のギリシア語で書かれている原文を読みますと、ここで主イエスは弟子たちに、ただ「あなたがたはつまずく」とだけおっしゃっていて、何につまずくのかということは、おっしゃっていません。新共同訳聖書には「あなたがたは皆わたしにつまずく」とありますが、「わたしに」というのは翻訳された際に付け加えられた言葉です。主イエスがおっしゃろうとしていることの重点は「何につまずくか」ではなくて、「一人の例外もなく、皆がつまずくことになる」というところにあるのです。
 今日は新共同訳聖書の区切りに従って27節からを聞いていますが、この直前の26節に注目すべきことが述べられていました。26節に「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」とあります。この言葉から分かることは、この時、主イエスと弟子たちは既にオリーブ山にいたということです。主イエスはこのオリーブ山でユダに裏切られ、捕り方の人々の手に落ち、捕らえられてしまいます。ですから今日の箇所は、主イエスが逮捕されてしまう寸前の箇所なのです。

 今日の箇所は、捕らえられる前の主イエスと弟子のペトロが最後に言葉を交わした場面です。主イエスと最後に言葉を交わしたときに、ここに記されているように並行線の言い合いのようになってしまったことは、ペトロにとっては大変残念なことだっただろうと想像できます。しかし実際にそのとおりだったのですし、またそれはペトロ一人だけではなくて、他の弟子たちにしても皆同じであったことが31節の最後に述べられています。
 主イエスは御自身が捕らえられる直前に、いったい何を弟子たちに伝えようとなさったのでしょうか。また弟子たちは何故、主イエスの教えて下さった事柄を受け止められずに反発したのでしょうか。その点を今日は聞きとってみたいのです。

 まず、主イエスが弟子たちに何を伝えようとしたかということですが、それは「つまずき」ということでした。「あなたがたは皆つまずくことになる」と、主イエスはおっしゃいます。
 主イエスがここでおっしゃる「つまずき」とは、すぐに続けて旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉を引用しながら語られているように、「羊飼いである主イエスが捕らえられてしまうと、羊の群れにたとえられている弟子たちが皆、逃げ散ってしまう」ことを指しています。そのとおりのことがこの後すぐに起こるのですが、主イエスがその出来事を「つまずきの出来事」とおっしゃっていることに注目したいのです。
 ここに言われている「つまずく」ということは、平らで歩き易いと思っていた道に思いがけず石ころのようなものが落ちていて、その障害物に足をとられて転倒してしまうことを言い表しています。ですから、「つまずき」は突然起こるのです。ユダの裏切りによって主イエスが敵の手に落ち逮捕される、その瞬間まで、弟子たちは自分たちの歩んでいる道が平坦な道であると思い込んでいました。まさか自分たちの中から主イエスを裏切るような行いをする者が出て来るとは思いもしなかったのです。
 確かに主イエスに従って生きる生活は、この世的には貧しい生活でした。しかしたとえ貧しくても、主イエスに従って生きることで、「主に伴われている安らかさの中を歩んでいる」と思い込んでいました。ところが、そういう生活の中に、突然、思いがけない障害物があることに気づかされます。「つまずきは」、実際につまずいて初めて、そこに思いもよらない障害物があったことに気づかされるのです。弟子たちも、もうあと数時間も経たないうちに経験することになります。今まで主イエスをまん中にして皆で一緒に歩んでいると思っていた生活が、無残にも壊れてしまいます。「あなたがたは皆、間もなくつまずく」とおっしゃりながら、主イエスは弟子たちがこれから経験することを教えておられるのです。

 ところで、そのように教えられた時に、主イエスはそれを「旧約聖書ゼカリヤ書の中に、既に預言されていたことの実現なのだ」とも教えられました。「あなたがたは皆わたしにつまずく」、けれどもそれは「ゼカリヤ書に『わたしは羊飼いを撃つ。するとは羊は散ってしまう』と書いてあることの実現なのだ」とおっしゃいました。旧約聖書ゼカリヤ書13章7節から9節に「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ わたしの同僚であった男に立ち向かえと 万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ 銀を精錬するように精錬し 金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え 『彼こそわたしの民』と言い 彼は、『主こそわたしの神』と答えるであろう」とあります。
 ゼカリヤはここで、神の不思議ななさりようについて語っています。神が剣に命じて、一人の正しく善良な羊飼いを撃ち倒すようなことをなさると言われます。羊飼いが撃たれてしまうと、今までその羊飼いに導かれていた羊の群れは、導き手を見失って散り散りにされてしまうようになります。多くの羊たちがさまよい出して死んでしまうのですが、神はその中から、尚、御自身のものとして生き残る者たちをお選びになります。けれども、生き残る者たちは守られ安楽に過ごすのではなく、銀や金といった貴金属を炉の中で精錬するような厳しい生活をさせられた後に、その生活の中から、銀や金という輝き与えられることになります。それは「神と固く結びついた生活」です。「『彼こそわたしの民』と言い 彼は、『主こそわたしの神』と答える」、そのような神と固く結び付けられた民が起こされるということが、ゼカリヤ書で語られている預言です。
 主イエスは、これから起ころうとしているつまずきの出来事を、「ゼカリヤの口を通して語られた神の御言葉のとおりのことが起こるのだ」と教えようとなさいました。即ち弟子たちがこれから経験することは、人間的な思いからすれば、予想もしないような裏切りによってこれまで歩んできた歩みが土台から突き崩され、何よりも弟子たちの中心におられた主イエスが奪い去られ処刑されてしまうという「つまずき」の出来事なのですが、しかしそれは同時に、ゼカリヤの口をとおして神が語っておられる御言葉に従って言うならば、弟子たちがまさに死の危険と隣り合わせのように持ち運ばれ、灼熱にさらされ辛く感じられるように思われながらも、実は、神の宝の民として清められるためにくぐる一つの大切な経験であることを分からせようとなさるのです。

 そしてここで特に心を向けたいことは、主イエスがゼカリヤ書の言葉を用いながら、「羊は散ってしまう」とおっしゃっていることです。主イエスは、「ゼカリヤ書の中に、『わたしは羊飼いを撃つ。すると羊の群れは散ってしまう』と書かれている。そのことをあなたがたは、まもなく思いがけないつまずきの出来事として経験するようになる」と言われました。主イエスの逮捕によって弟子たちが逃げ散ってしまうことを、「羊たちが散らされることだ」とおっしゃっておられるところに、主イエスの弟子たちへの深い思いやりと慈しみがあることを憶えたいのです。
 ユダの裏切りをきっかけとして弟子たちが皆、主イエスのもとを立ち去り、主イエスが最後には一人だけ残されて十字架に架けられ無残に殺されるという出来事を、私たちは「ユダだけでなく他の弟子たちも主イエスを裏切った、裏切りの出来事なのだ」と大変いかめしく考えがちです。「ユダだけが裏切りを働いたのではない。他の弟子たちも皆、自分に危険を感じると主を見限り、背を向けて逃げてしまった。そこに他の弟子たちの裏切りがある」。そしてそのように聖書に聞きながら、私たちは、自分自身と重ねて物事を考えます。「たまたまその場に居合わせなかっただけで、もし目の前で主イエスが逮捕されるような場面に直面すれば、わたしも弟子たちと一緒に背中を向けて逃げ出し、主を裏切るに違いない」と思ったりするのです。そして、確かにそうなるだろうと思います。主イエスが突然逮捕される、その時には、どんなに勇ましいことを言っていても、やはり私たちは自分の身の安全が第一で、主に背を向けて逃げ出したい思いになるでしょう。そのように考えて、私たちは主イエスに対して大変後ろめたい思いを持つのです。
 けれども主イエスは、御自身が十字架にお架かりになり私たちの罪を清めてくださる方としてこの出来事を受け止めておられ、そして「あなたがたが逃げ出すのは、羊飼いを失った羊の姿である」と言ってくださるのです。主イエスの逮捕、十字架に際して、背を向けて逃げるのは、羊飼いが撃たれてしまった結果です。羊の群れが羊飼いを失って逃げ散るのは、羊が羊飼いを裏切っているからではありません。羊はもともと羊飼いがいなければ、方向を定めて進んでいけない、そういう生き物なのです。そして弟子たちは元々、導いてくれる羊飼いがいなければ、自分から主に従ってゆくことはできない弱さを持っているのです。
 主イエスは、もうすぐ御自身が逮捕され十字架に架けられることを御存知でした。そしてそうなってしまえば、一緒にいる弟子たちは目当てを失い途方に暮れてしまうことを御存知でした。それで、つまずきの出来事が突然起こることを教えた後に、「それは、羊たちが散ってしまうことなのだ」と言われました。

 そしてその際に大切なことは、「目当てを失った弟子たちは、一体どこに行けば主イエスにお会いできるのか」ということです。主イエスはすぐに教えられました。28節に「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」とあります。
 「あなたがたより先にガリラヤへ行く」、これは「あなたがたに先立ってガリラヤに行く」とも、「あなたがたの先頭に立ってガリラヤに行く」とも訳すことのできる言葉です。ここで「先に行く」と書いてあるのと同じ文字が、10章32節では、主イエスが「先頭に立って進んで行かれた」と訳されて出てきます。このように「先頭に立つ」、「先立って行く」という姿は、羊の群れを導く羊飼いの姿なのです。
 主イエスは、ごく真近に迫った逮捕とその後に続く十字架の出来事が、弟子たちにとっては青天霹靂のつまずきの経験となると承知しておられ、そのために従うべき目当てを失った弟子たちが羊飼いを失った羊たちのように彷徨い散り散りになることを知っておられて、「どこに行ったら、もう一度主イエスにお会いできるのか」ということを、「それはガリラヤである」と教えられました。「ガリラヤ」というのは、弟子たちには馴染みのある地名です。主イエスが弟子たち一人ひとりを招いてくださった土地だからです。そしてまたガリラヤは、主イエスの言葉を信じて従うようになった弟子たちが主イエスと生活を共にして、その生活を通して神の慈しみを知らされ、神に信頼し、祈り、神を賛美して生きる生活がどんなに広やかで清々しく気持ちの良いことであるかを、主イエスから教えてもらった地でもあるのです。
 主イエスを見失った時には、弟子たちはもう一度、最初のところに立ち戻って、「主がどのようにして出会ってくださったか。どのように生活して神の慈しみを現してくださったか」を思い出すように、「ガリラヤに行けば、わたしに会える」と言ってくださったのでした。
 ですから、ガリラヤは地名ですが、ここにいる私たちにとっては必ずしも世界地図の上のガリラヤということではありません。主イエスを見失ってしまった時には、私たちはもう一度、元に戻って、「主イエスがわたしを神の民の一人として選び、招いてくださり、共に生きようとして下さる地点に立ち戻ること」が良いのです。主イエスは甦られ、私たちを招かれる方として、常に私たちに伴って下さるからです。

 ところで、そのように主イエスが弟子たちに教えられた時に、ペトロをはじめ弟子たちには、この主イエスの言葉の意味が分からなかったようです。ペトロは29節のように答えました。「するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言った」。
 このぺトロの言葉は、しばしば、自分の弱さや罪を認めようとしないペトロの傲慢さの表れだと受け取られます。「他の人はつまずくけれど、自分だけは違う」とペトロが言ったと受け取られがちです。しかし、必ずしもそうではないかも知れません。ペトロは自分が決してつまずかない強い人間だと思っていた訳ではなくて、主イエスと共に生きる平安の喜びを知っているだけに、そこからつまずいて転んでしまうのだと聞かされた時、「そんなことが決してあってはならない」と思っただけかも知れないのです。
 これは丁度、主イエスが御自身の十字架のことを弟子たちにはっきりと教え始められた時にも似たことが起こっていたと思います。主イエスが最初に御自身の十字架について教えられたときに、ペトロは「断じてそんなことがあってはならない。とんでもないことだ」と思って、主イエスを脇の方にお連れして諌めようとしたことが語られていました。今日のところでもペトロは、まだつまずく前ですから、「弟子である自分たちは主イエスにいつも従っていなくてはならない。つまずいてはならない」と思っているのです。
 けれども、「決して主イエスから離れてはいけない」と思っていても、羊飼いの御声に導かれないならば、羊は道に迷う他はありません。ペトロはそのことを、主イエスからはっきりと聞かされることになります。即ち、今日この晩、鶏が鳴く明け方までに、「ペトロよ、お前は3度わたしのことを知らないと言うことになる」と言われたのでした。主イエスは、ペトロに情熱はあっても、しかし肉体は弱いことを分かっておられるのです。

 ところが、そう言われてもぺトロは引き下がりませんでした。「たとえ一緒に死ななければならなくなるとしても、わたしは決して主イエスを知らないなどとは言わない。何故なら主イエスと共にあることは、わたしにとって何にも代え難い大切なことだからだ。それなのに、どうしてそのことを主イエスはお分かりにならないのか」と悲しく思い、ペトロは執拗に食い下がりました。そしてそれは、他の弟子たちも同じだったと語られています。ペトロの主イエスに対する思いは本物だと、他の弟子たちも同意します。そして、自分たちもまた「ペトロと同じ思いである」と言い始めるのです。この時の彼らの気持ちは確かにそうだったに違いありません。ですから「わたしは決してつまずきません」と言い続けました。
 けれども、心の思いは熱していても、肉体は弱いのです。このように主イエスに申し上げた弟子たちが、この後一時間も経たないうちに、捕り方に囲まれ捕らえられる主イエスを前にして見事に転んでしまいます。弟子たちは散り散りになり、そしてペトロは3度、主イエスを知らないと言ってしまいました。

 主イエスはどうして、このようなことを弟子たちにお語りになったのでしょうか。それは、弟子たちがたとえ悟りのない羊のような者たちであっても、自分からはなかなか主イエスに従っていくことができない者なのだとしても、そういう自分自身に絶望しないためではないでしょうか。ペトロも他の弟子たちも、主イエスに自分から従うことのできない弱さを抱えながら、しかしそのことに気づかずにいます。主イエスに従って行くことは、自分の心の事柄だと思っているのです。
 けれども、従わなければならないから従えると思ってしまうほどに、実は、神に従う上での方向感覚が鈍く乏しいと言わなければなりません。
 しかし主イエスは、そんな彼らを教えられます。「あなたがたは皆つまずくことになる。それは羊のような鈍さがあるのだから避けられない。しかしわたしは、そういう羊たちを導く羊飼いとして、復活しガリラヤにおいてあなたがたを招くことになる」と、おっしゃってくださるのです。

 弟子たちの信仰生活が、すべてがこの主イエスの招きの言葉から始められ、主イエスに導かれているということを、はっきりと認めるようでありたいのです。
 主の御言葉に励まされ、御言葉から勇気と力を与えられて神を賛美して生きる生活を歩んでいく、幸いな者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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